日本の三大自動車メーカーのひとつである日産自動車。本社を神奈川県横浜市に構える、日本屈指の自動車メーカーです。
ルノーや三菱との提携により成長を続け、2017年の日本車・輸入車販売台数では国内シェア第2位に輝いています。
高級車ブランドとしてアジアや欧州での展開を広げつつあるインフィニティ、新興国向けに展開する低価格で確かな走りを実現させたダットサン、近年注目されつつあるEV技術を詰め込んだリーフやノートe-POWERなど、乗り手の気持ちに寄り添う車作りをする日産自動車の歴史を紹介します。
日産自動車の始まり
1911年、橋本増治郎が中心となり国産自動車製造を行った快進社は、当時の国内自動車産業の先駆けとなりました。
1914年、快進社設立にあたり出資協力者であった田健治郎・青山禄郎・竹内明太郎の頭文字から名付けられたDAT自動車が完成します。
そして、DAT自動車はこの年に開催された大正博覧会で銅牌を獲得しました。
その後、1918年には従業員60人の株式会社となり単塊鋳造4気筒エンジンを乗せた自動車を発売しますが、関東大震災後の混乱により米国車が大量に輸入され経営不振に陥り、1925年に合同出資会社ダット自動車商会を設立。
翌年、三輪自動車を手掛けた米人技師ウィリアム・R・ゴルハムとダット自動車製造(株)を設立しました。
1931年、自動車部品を製造していた鮎川義介率いる戸畑鋳物の傘下に入り、小型乗用車第1号であるダットサンが完成します。
その後、ダットサンの生産拡大のため、鮎川義介の持ち株会社であった日本産業と戸畑鋳物の出資を受けて、1933年自動車製造(株)が設立されました。
翌1934年、日本産業の100%出資会社となったことを機に、社名が日産自動車株式会社となりました。
英国技術で躍進を遂げた日産車
日産自動車は横浜工場での一貫生産ラインを完成させ、ダットサンをアジアや中南米などへ輸出を開始させました。
さらに、乗用車のみならずトラックやバスの製造販売でも成功を収めます。
その後、英国のオースチン社と技術提携を結び、プリンススカイラインやダットサンブルーバードといった走行性能とデザイン性を合わせ持つ車種の開発に乗り出し、第6回豪州1周ラリーにダットサンが初出場した際には、Aクラス優勝の記録を残しました。
米国への輸出開始と共に、米日産・メキシコ日産・豪州日産を次々と設立し目覚ましい発展を遂げています。
日産自動車発展の歴史には、外国との提携が大きく関わっているのです。
経営悪化から回復へ導いた新社長
1990年半ば、自動車産業の波に乗っていた日産自動車がマーケティングやデザイン性の迷走によって業績が悪化し始めます。
プレジデントやセドリック、マーチなどの車種が販売開始された頃です。
経営悪化に歯止めをかけるべく、座間工場を閉鎖し再建に努めましたが赤字は減らず、厳しい状況が続きました。
1999年、ルノーとの資本出資を含む提携によって危機を脱し、新たにカルロスゴーンを社長に迎えます。
彼による「日産リバイバル・プラン」では、過剰な生産の中止と2万人超のリストラで合理化を推進。
これにより、コスト削減に成功し2002年にはそれまでの日産の歴史上最高の収益を得ました。
技術の日産と言われる徹底した車作り
第二次世界大戦後、オースチンからの技術提携を受けたことで、日産自動車の技術は大きく向上しました。
他の国内自動車メーカーよりはるかに故障しにくく、安定した走行性とハンドリング性がある「機械」としての車作りに徹したのです。
そのため、製造過程での妥協は一切なくダットサン全盛期には、他メーカーと比べ作業工程が20工程以上も多かったといわれています。
当時、機械好きな人はこぞって日産の車に乗り、医者の往診用としても多く利用されていました。
そして、歴史ある確かな技術は2008年に「日産先進技術開発センター」がCASBEEで最高ランクの認証を取得するまでになり、近年でも新たなEV技術の研究や製造技術の研究が進められています。
日本三大自動車メーカーのなかでも、確かな技術を学ぶには十分すぎる環境といえるでしょう。
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